共に生き、多様性を認め合う市民社会に
2016年7月26日、相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で、元職員が19人の入所者の命を奪うなどした殺傷事件が起こった。元職員は、「障害者は生きていても意味がない」と凶行に及んだとされている。
事件の直後、私は、ごく身近で福祉事業に関わる人から、「どこまで税で支えれば良いのか考えるべき」と迫られた。保育や教育の場で配慮が受けられず「排除された」と言う訴えに応え支援を続けてきた人の指摘だった。その発言は、まさに生産性を問うものだった。
違和感を持ちながら強く否定できないまま2年が過ぎた。が、この間も、差別や偏見の根深さを突きつけられる出来事が続き考えさせられた。あらためて今感じることを整理しておきたい。
今年1月には、旧優生保護法の下で障害を理由に不妊手術を強制されたと国家賠償請求訴訟が起こされた。旧優生保護法は1996年まで施行されていた。わずか20数年前まで、国家が優生思想に基づいて不妊手術を強制していた事実と、やまゆり園での殺傷事件で元職員が命を選別する思想とが重なった。国は、「これまで旧優生保護法に基づき適法に行われた手術については,過去に遡って補償することは考えていない」とし、被害者への謝罪も行なっていない。
7月、津久井やまゆり園の事件から節目となる時期の報道に重なるように、「LGBTは生産性が無い」とした杉田水脈衆議院議員(自民党)の差別発言が報じられた。しかし、自民党内では彼女を擁護する人たちがおり、二階幹事長は「人それぞれ政治的立場、いろんな人生観、考えがある」と公言していた。その後も本人からの謝罪の類も、党としての処分もない。圧倒的な数の力を持つ政権政党の中で、健全な批判がなされない状況があるのではないかと危惧する。
社会のあちこちに優生思想や排外主義的な風潮がある。相模原の事件も「元職員の問題」ではなく、私たちの中にある危うさとして認識したいと思う。自らの危うさにどう向き合い、乗り越えるのかが問われている。
誰もが何らか支えられて生きている。私もそうだ。あらためて、この社会を共に生きている関係や、生き方の多様性を認め合う市民社会を模索していきたい。